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9月24日 早生米の稲刈りをしました。雨で延び延びになっていましたが、なんとか倒伏しないうちに刈れました。コンバインが入れるように鎌で縁刈りをしますが、暑くて汗がふき出て、休み休みです。この時期にこんなに暑い稲刈りは、初めてです。私が小学生の頃、国が極早生米を推奨したためか、8月のお盆頃稲刈りをしていたことを思い出しました。 後日、籾摺りをしました。収量は、出来の悪かった昨年より少しだけ増えました。次は中生米の稲刈りです。 地域支援員さんと地元の方が手入れをされて、イチリンソウの群生がみられます。 見ごろは4月下旬までです。 10月秋晴れの日 宮島で街頭宣伝 鹿が集まってきて、木陰でおとなしく聞いていました。何日か前に、宮島を訪れる外国人観光客が過去最高、というニュースが流れました。 9月議会で「伝統的建造物群保存地区保存条例」が可決され、宮島の歴史的街並を守る計画が定められることになりました。旅慣れた友人が「今まで行った中で一番良かった」という宮島。弥山から見る瀬戸内海と島々の眺めも素晴らしいです。 折り紙の本です。 高校の時の物理の先生、藤本修三先生考案のねじり折りとその折り方が紹介されています。 物理の時間、自分で考案したという「星」の折り方を教えてくださいました。家へ帰って何度か折ってもみましたが、いつか忘れてしまいました。肝心の物理の方はさっぱりわからず、多角形など、これまでになかった立体折り紙を創作し、本も出されるということは覚えていました。何十年もたって、さいき図書館で再会できるとは。 8月27日 農協「改革」法案、参院農水委員会で可決 「百害あって一利なし」の声が 法案には日本共産党、民主党などは反対しました。農業者や農協関係者からは「だまし討ちにあったようだ。」「農業所得が増えると思えない。」と疑問や不安の声。私も農協の正組合員です。7月に開かれたJA佐伯中央女性部の「JA女性のつどいならびに家の光大会」では、来賓の農協関係者から「TPPや農協改革など安倍さんにやられっ放し。なんでこうなったのか全く納得できない。権力に立ち向かうのはたいへんだ。3年後には農協中央会はなくなる。なくして、なぜ農家の所得が上がるのかわからない。」と憤りの発言がありました。
父の戦争体験 私の父 小島(おじま)俊彦は、第二次世界大戦末期、朝鮮半島の飛禽島(ときんとう ピグムド)龍山(りゅうざん ヨンサン)で兵役についていました。任務地から復員までの日々をつづった追想録を遺しています。(昭和22年21歳時に執筆) 〔肉攻〕「これは人間と戦車との一騎射ちである。敵戦車の突進し来るを待ち伏せ、爆雷と共に肉体を戦車にぶっつけて破壊せしめるのであって、八月に入ってからは、○○○○(4字不明)肉○攻撃ばかり訓練している。」 〔原子爆弾〕「八月十日頃だった。山口班長が(中略)『廣島は原子爆弾に依って全滅してしまった』と述べた。」「この時には、戦 我に不利なることを強く知ったのである。」 〔いくさ止みて〕「軍事に関係ある書類を全部焼却する事になった。」「小生も(中略)衛生書類、金銭出納簿 日記帳……等々軍隊書類を全部失ひ、今は何もない。」 日本への帰還は9月10日仙崎港に着き、故郷の兵庫県多紀郡八上村(現篠山市)に向けて、下関から山陽線に乗っています。 〔山陽本線を東へ〕「廣島が眺め度く思へども、生憎、真夜にて、皆目判らず。只、駅の灯が五つ六つ 灯ってゐるのみだった。尚、徳山の戦災の甚大なることも想像外」 2015年8月2日 戦後70年・被爆70年 さいき文化ホール平和事業「祈り」舞台とロビー展示 ロビーでは、平和を願う廿日市市民のメッセージを組み合わせた巨大な「平和メッセージアート」、佐々木サダコさんが実際に折った折鶴の写真、被爆に関する本や絵本、原爆被害の写真パネルなどを展示。 舞台は第1部 私たちの祈り 第2部 この祈りが届きますように と題して、合唱 ギター・バイオリン演奏 日本舞踊 ピアノ演奏&トークなど、それぞれ平和の希求を表現しました。 第2部、デイジュリドゥ・尺八(鳥平二郎さん) 書(小川妙子さん)とのコラボレーションで踊りました。尺八演奏曲は「界(かい)」です。 2015年3月22日 廿日市市文化協会佐伯支部10周年記念 �🎀�春のコンサート� 文化協会佐伯支部副支部長として、会員のみなさんとともに、地域の文化芸術振興に取り組んでいます。 ←第1部 広島朝鮮芸術団による、歌・踊り美しさに圧倒されるような感動。何日も感動の余韻に浸っていました。アンケートでは「また見たい」の声が多く寄せられました。 第2部 平岡麻衣子さんのピアノ演奏、文化恊会会員による日舞など好評でした。 紅白歌合戦で応援 2015年2月22日(日)さいき文化ホールで、第8回紅白歌合戦が開催されました。 佐伯連合女性会として、ロビーでかきめしときつねうどんの販売を行いました。舞台では、応援のパフォーマンスをしました。写真は割烹着にもんぺ姿で白組の応援をしているところです。写っていませんが、左側では同じように紅組の応援もあります。 港から見た食と農 食の安全に関心のある広島市民の呼びかけで、神戸港の輸出入食品倉庫の視察研修があり、参加しました。 多くのの倉庫がある中から、農産物の倉庫を見学しました。積まれている段ボール箱の中身は、多くが中国からの野菜で、玉ねぎ、ニンジン、ごぼうなど、ニュージーランドからのニンジン、アメリカからのメロンなどもありました。 今は国産が旬なので中身はありませんでしたが、ニュージーランドやトンガからの輸入カボチャ用に段ボール箱がうずたかく積まれていました。日本から鳥取産輸出用のなしもありましたが、多かったのは台湾へ輸出する北海道産の山イモでした。 元税関職員で、現在は兵庫食健連事務局長の柳沢尚さんが、輸入食糧事情についてお話をしてくださいました。 中国ギョーザ事件がありましたが、食中毒事件の背景にあるのは、検疫体制の不十分さです。輸入量は年間186万件、3410万トンもあるのに、検疫所は全国で31か所、341名(中国宇ギョーザ事件後、検査官を7名増やしたのみ)の検査体制で輸入食品の約10%程度しか検査できません。しかも一部のみのモニタリング検査で、検査に1度2度とひっかかれば、命令検査になりますが、これも民間で検査し、届け出るだけのものです。 小麦、大豆、コーヒー豆など恒常的に輸入される食料は、初回の検査成績を添付すれば、当分の間検査は省略されます。輸入j冷凍食品の残留農薬検査はまずしていないそうです。 行き帰りのバスの中で見たビデオでは、輸出国の産地で収穫後の果物に、これでもかというほど何度も何度も殺虫剤や防カビ剤が撒かれ、 オレンジやリンゴには最後にワックスで仕上げがなされていました。 小麦粉にも薬剤がどっさりと混ぜ込まれています。輸入小麦粉で作られる学校給食のパンからは、マラチオンなどの農薬が検出されています。食べる人の健康などまるで無視した「ポストハーベスト」の実態は、本当に恐ろしいものです。 輸入食料品の検疫体制を強化すること、輸入に依存する食糧政策を改め、自給率を高めることを、日本共産党は以前から主張し続けています。私たち国民は 「食の安全」に関してもっと厳しい目をもっていかなければと思います。 えんどう豆の実るころ 畑にエンドウの花が咲いています。この時期になると子どものころを思い出します。 私の誕生日は5月下旬。田植えで忙しい時期で、母は出産前日まで田植えをしていたそうです。昔は今のように誕生日にお祝いをする習慣はなかったのですが、母はよく私の好きなエンドウ豆御飯を炊いて祝ってくれました。 実家の前の畑は2畝くらいあったでしょうか、エンドウ豆畑で、兄や友達と未熟なエンドウ豆を採っておやつ代わりに食べたものです。さやの中の豆はまだ小さく、皮をおもに食べるのです。皮をぱきっと割ってむき、硬い薄皮と筋を残します。青臭く甘くておいしかった。また、よく実ったエンドウ豆は、祖母がおくどさんの羽釜でやわらかく塩ゆでしてくれました。夕方、台所の板の間に座り込みいくつもいくつも皮ごと食べました。これも硬い薄皮は歯でしごいて残します。もう一度あのおいしいエンドウ豆を食べたいと思うのですが、郷愁にすぎないのかもしれません。 あの頃、昭和30年代前半の日本の食料自給率は80%もあったのです。実家では米・麦・豆・野菜・卵・みそは自給、農耕用に飼っていた牛の飼料も草と切り藁、糠などで自給、燃料は薪、暖房はたどん炬燵でした。魚や干物、調味料などは買っていました。肉類は、お祭りの日にすき焼きで牛肉を奮発するくらいでほとんど登場しなかったのではないでしょうか。しかし、高度経済成長とともに食卓の風景も変わってきました。 今、我が家では、4年前に夫の母が亡くなってから耕作がなかなかできず、米以外の野菜はほとんど買っています。畑はあるのに情けないことですが、畑が家から離れているため、朝夕ちょっと草ひきなどということができず、雑草だらけにしてしました。いつかは何とか野菜を自給できるようにしたいと思っているのですが。 日本の食料自給率は、いまや39%です。農業では生活できなくなって、農業後継者が不足、農村は衰退しています。私が懐かしく思い出す農村風景はもう取り戻せませんが、せめて、輸入頼みの日本の食糧政策を転換し、自給率を上げて、農村をもっと元気にしたいと強く思います。 「日本共産党の農業再生プラン」はホームページでお読みいただけます。ぜひご覧ください。 |