地御前地区の概要 地御前地区は、人口約6,800人、面積1、84Ku で、廿日市市の沿岸部中央に位置しています。 その海沿いを南北に国道2号線、並行して広島電鉄宮島線、JR山陽本線、また、地区の中程には西広島バイパスも通っており、交通量も多く交通便のよい地域です。 昔は半農半漁の村でしたが、近年広島市のベットタウンとして開発が進み、住宅地や総合病院・大型スーパー・商店等も増えて、山林や耕地面積は、減少の一途をたどっています。 けれども、貝掘りのできる自然砂浜、その前の樹木の中に悠然とこけら葺きの広い屋根を見せる地御前神社、昔の街道跡をとどめる格子の街並など、しっとりと古い歴史を感じさせる一角もあって、変化に富んだ街といえるでしょう。 また、地御前は、斜め向かいの日本三景の一つである「安芸の宮島」とは、古くからかかわりの深いところです。 宮島の厳島神社を本宮、対岸にある地御前神社を外宮(現在は摂社)と呼んでいましたが、本宮の御前にあるので、当時は「地の御前社(じのごぜんしゃ)」と呼ばれていました。それで「地御前(じごぜん)」という地名になったと言います。そのため、御陵衣祭(ごりょうえさい)、引き続いて行われる流鏑馬(やぶさめ)神事や管絃祭など、他では見られない優雅な祭りも継承されていて、その時は大勢の人で賑わいます。また、小さなほこらや由緒ある史跡も多く、史跡巡りもよく行われています。 漁業は、むかしは「イワシ網漁」が盛んでしたが、現在では「カキ養殖」が主流となり、広島カキの特産地として全国的にも知られ、従事する人も多くいます。 核家族化や高齢化も進んでいますが、比較的3世代同居の多い地域でもあります。 |
馬とばし(御陵衣祭) 旧暦の5月5日の端午の節句に,地御前神社では『御陵衣祭』(ごりょういさい)があって,流鏑馬(やぶさめ)の神事がある。一般には『馬とばし』という。 江戸時代には,馬は広島藩から差し向けられていた。御陵衣祭の日には,先ず神社で祭典があって後,『馬とばし』が行われる。騎者は笠をかむり狩衣(かりぎぬ)を着て,矢筒を背負い弓を持って乗馬した。馬は神社前より火の 見櫓下の間を飛び走り,方式どおりに矢を的に射た。一般の馬を走らすこともでき,観衆は,道のほとりで熱狂的に声をあげ,囃したてた。 今は,道路が舗装されたり,馬が少なくなったりしたので,形をかえて実施されている。この流鏑馬神事は古くから行われていて慶長年間の道具が神社に残されている。 |
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おかげんさん(管絃祭) 管絃祭を『おかげんさん』,または『十七夜』と呼んで,旧暦の6月17日夜に行われる。 厳島神社から御座船は,江波(広島市中区)と阿賀(呉市)の漕き船に引かれ,高田(能美町)の御供船を従えて地御前神社に向かう。地御前沖で一時停船して潮待ちをするが,江波船は地御前神社へ先行する。地御前からは,代表者が乗った水先案内船が出向きお迎えする。 御座船は,地御前神社前のお州堀りされた御池へ進む。神社前では,お供え,祝詞があって管絃がはじまる。管絃の音が高らかに響き祭りは最高潮になる。やがて,御座船は周りを三回めぐる。おりから昇る月影をあびながら,御座船は宮島の長浜神社を指して帰って行くのである。 この祭りは,このあたりの夏を飾る一大祭典であり,昔は廿日市各地でかがり火を焚いたり,提灯を灯したり,『ぬりつけ餅』を神棚に備えたりして,宮島の神を迎えたものである。 |
小林千古は,明治三年(1870)地御前に生まれ,本名は,花吉といった。 明治21年(1888)18歳の時,冒険心と向学心を抱いて,移民労働者とともにアメリカに渡った。千古は,絵画の道を志し,カリフォルニア州立大学付属美術学校に入学し,競技会おいて賞を得るほどになった。その後一時帰国し,アメリカからヨーロッパに渡り,当時パリに滞在していた黒田清輝と親交し,名画に接して絵画に対する理念を学び,明治36年(1903)に帰国している。明治38年(1905)から日本洋画壇において宗教画を発表しているが,時代の流れの中で千古の画風はあまり認められなかったようである。明治41年(1908),病気ということもあり,学習院女子部助教授を辞めて地御前に帰郷し,明治44年(1911)41歳という若さで病没した。 千古の残した絵画は少ないが,明治時代にアメリカで学んだ数少ない日本人として,南薫造など郷土の洋画壇に与えた影響は大きいといえる。日本洋画史の上でも,幻の近代洋画家として特筆すべき存在であろう。 |