代行政への幕開けの一つ、町村制が施行されて
「吉和村」となり100年の歴史を積みました。
戦争と平和のこの百年以前から、私たちの
祖先はこの村の大地に冠・十方・女鹿平の
山々がそびえる大自然の中に、脈々と生命をつないできました。
冠高原一帯に埋もれる冠遺跡の発掘調査は、村に生きた人々
の歴史を、一気に2万年以上もさかのぼらせました。石の道具と
狩の時代「旧石器時代」と呼ばれる遠い昔の暮らしを掘り出したのです。
原・半坂の遺跡からは、縄文時代や弥生時代のくらしが伺えます。
西暦400年から500年の古墳時代、吉和では田中原に4基の古墳が造られています。
奈良、平安の時代は、「中の坪(なかのつぼ)」「宮の前小路(みやのまえしょうじ)」などの地名にこの時代の名残をとどめています。
文字に読める資料で、一番古いものは、教龍寺の梵鐘にある「明徳(めいとく)5年」の銘で、これは1394年、約600年前のものです。このころ、厳島文書の中に「吉和村」の字が見られ、また、山口県秋穂町の八幡宮造営記録には、このころ木材を求めて吉和の山に入ったと書かれています。
戸時代、吉和は耕地が275町 9反 3畝 3分、出来高 1,905石3斗 3升 3合が割り当てられていました。寒冷の地での二千石は相当に厳しいもので、天保7年、8年と続く洪水と飢饉では一年に650人もの死者を出しています。
1764年には、吉和で歌が詠まれ、八幡神社に奉納されています。「はらはらと はらりはらりと 落葉する帯のようなる谷の細道」など、当時の村の情景を想いおこさせる歌もあります。大正時代には、特産”わさび”の栽培が手がけられ、大正13年には、村内の家々に電気がつきました。
和になって定期バスが通い始め、昭和9年の冬には第1回広島県スキー選手権大会が開催されています。戦後の昭和36年、頓原の田の畦に建てられた石碑には、「生きかわり 死にかわりして 打つ田かな」 と刻まれています。吉和村のあゆみもまさに、この積み重ねの歴史だったのでしょう。
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