原地区の紹介 INTRODUCTION OF HARA
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おだやかな瀬戸内海と自然豊かな山に囲まれた廿日市市の北部にあるまち、原。

〒738-0031 広島県廿日市市原439-2
TEL.0829-39-0227




原地区の歴史

 原地区は極楽寺山南西の麓に広がる地域です。地域の人々の多くは、可愛川上流の長野川と川末川という、2本の河川のそれぞれの扇状地の平地上に古くから生活していました。

 こうした平地は沿岸部の平野と異なり、早くから人々の生活の舞台となっていました。黒岩遺跡では、縄文(押型文)土器が出土していることから、少なくとも今から約8000年前には、人々が原地区周辺に住みついていたことは確かです。当時の人は狩猟や漁撈で生計を立てていたと考えられています。弥生時代になると、川沿いの平地で稲作が始められると定住が可能となり、原地区にいくつもの集落ができていきました。この地区内に国実遺跡や長野遺跡など弥生土器の出土地が比較的多いのもこうした理由からです。

 しかし、この地域が原という地名で歴史の中に登場するのはそれほど古いことではありません。戦国時代まではまだ原という地名は存在せず、厳島神社の荘園である平良庄の一地域を占めるに過ぎませんでした。この頃は、現在でも使われている「森宗」「川末」などといった小字(こあざ)が最も小さな行政単位で、こうした地域的なまとまりは「名」(みょう)と呼ばれていまた。原村という名称が正式に登場するのは、慶長6年(1601)に福島正則が実施した検地からです。この検地で支配の単位がそれまでの「名」から、これをいくつかまとめた「村」に切り替えられました。 以後、原村という名称は、昭和31年(1956)に他の4か町村と合併して廿日市町が発足するまで、350年余にわたってずっと生き続けました。もっとも明治時代の初めに大区・小区制が採用され、周辺の数か町村とともに第四大区第四小区となって、原村という名称が消えたことがあります。このときは大区・小区制が数年間で廃止されたために、明治11年(1878)から再び元の原村になりました。明治17年(1884)に後畑が白砂村(現湯来町)から分離合併され、現在の原地区の原形ができ上がりました。
 
 その後、昭和63年(1988)4月1日市制施行により廿日市市原として現在
に至っています。

                 参考文献 はらゆかしい歴史と文化を訪ねて
                (平成21年3月 原公民館企画運営委員作成)
                                         



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