織田長益(おだながます)
天文16年(1547)〜元和7年(1621年)12月13日没

幼名:源五郎(又は源五)
官職名:出雲守、武蔵守
斎号:有楽斎如庵(又は有楽斎)
茶人:利休七哲の1人

信秀の十一男。

天正3年(1575)信長より書状を受け取った記録があり、これが長益の最初の
資料といわれている。
この頃、尾張国知多郡大野庄に1万3千石の領地を賜る。
後にこの地に大草城の築城を試みるが完成前に廃城になった。

天正9年(1581)2月28日の馬揃えの時は連枝衆(一門衆)の1人として行進。
天正10年(1582)2月の武田攻めに従軍。
本能寺の変の際は、信忠に従って二条御所に籠もるが、脱出に成功。

天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは、信忠の弟の信雄に従っていた。
その後、所領を捨てて剃髪、秀吉に仕えて、摂津島下郡味舌(ました)2千石を賜る。
天正13年(1585)7月11日、従四位下侍従に叙任。
慶長4年(1599)頃には、摂津島下郡味舌1万5千石を賜っていたという。

関が原の戦いでは、東軍につき、石田三成の家臣の蒲生喜内を討ち取り、武功をあ
げた。その恩賞として大和で加増され、3万石の大名となった。
また嫡男長孝も武功をあげ、美濃国に1万石を与えられた。

大阪冬の陣の時は、淀殿の叔父にあたるため豊臣秀頼を補佐する事になったが、大
阪城内で大阪方の情報を家康に送ったという。
その一方で家康と大阪方の和睦にも奔走したが、大阪方に意見をいれられなかった。
夏の陣の直前に退去し、京都にとどまっていた。

晩年は京都建仁寺搭中の正伝院を再興し、その中に隠居所を設け、茶室を作りこれ
に如庵(じょあん)と名ずけ茶道にいそしんだ。
3万石の所領は幕府に願って分割し、4男長政と5男尚長に1万石づつ分け、残り
1万石は自らの隠居料とした。
元和7年(1621年)12月13日、京都東山にて没、享年75歳であった。
その後、隠居料は没収。長男の美濃国野村1万石も跡継ぎがなく没収。

4男と5男の家は大和芝村藩主、大和柳本藩主として幕末まで続いた。
家康から江戸に屋敷を与えられたが、その跡が有楽町と名づけられた。
又、甥の貞置によって、長益を祖とする茶の湯の一派(有楽流)が開かれ、貞置集
という茶道の本が作成された。
有楽斎は、京都建仁寺搭中の正伝院の墓所に葬られ現在に至る。

参考文献
織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)
戦国人名事典コンパクト版(新人物往来社)
織田一族のすべて(新人物往来社)
織田有楽斎(講談社文庫)

補足
馬揃えとは、馬を集めて優劣や調練の状況を検分するもの。軍の士気高揚の行事で
もある。