===================================企画その2===================================

テーマ「織田有楽斎」

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作者:有楽 (2007.05.05)

織田有楽斎は信長の13歳下の弟として尾張に生まれた。
物心のつかない5歳の年に父信秀を失い、それ以後は、信長の庇護のもと成長した。
信長の家老の平手政秀に、小さい頃から茶の湯を習い、政秀の娘、お清を妻に貰った
時は、茶道具一切を譲り受けたという。
これにより茶人としての人生を歩む事が決まったと思う。

その後、戦場ではその名をあまり見せないが兵站役をしていたとも言われる。
有楽斎が脚光を浴びだすのは本能寺の変あたりからである。信長が明智光秀に討たれ
た時、二条城に信忠を残し脱出した事により後世の人々から「逃げの有楽」の異名を
賜る事になった。信忠に嫡男三法師のため生き延びるようにと託されて脱出したのか、
あるいは、自らの「生きたい!」という思いで脱出したか、真実は、歴史の闇に包ま
れたままではあるが、生き残った事は良かったと思う。

この時、織田家の12人いた兄弟のうち、生存していたのは四男の信包と有楽斎だけ
となった。跡目候補は信長の次男信雄と三男信孝と信長の嫡男の信忠の子の三法師だ
った。関が原の戦いでは、戦場に織田軍の旗を翻し、生涯で最大の武功をたてた。
大阪の陣では、豊臣家は徳川家の主筋といって譲らなかった大阪方を、豊臣家の主筋
である織田家の有楽斎が両家の和睦交渉をしながらどのような思いでいたかは、興味
深いものがある。覇道を歩んだ信長に対し数奇の道を歩んだ有楽斎。
兄なきあとの世界でも、秀吉の妻や家康の世継ぎの秀忠の妻が有楽斎の妹のお市の娘
だった事を見ても、織田家の家名は重かったものと思われる。
カリスマもあったであろう織田家の家名を十二分に自分の生きる力として見事に戦国
乱世を生き抜いた織田有楽斎。
その生涯は、茶の湯という風雅な雰囲気に包まれながらも、信長の弟である事を心の
どこかで誇りに思いつつ、戦国武将としての身の振る舞いもそつなくこなしているよ
うに思える。
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