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歴史ノート | ||
[第2回]H21.06.07 | ||
「瀬戸内海の成り立ち」 | ||
「ひろしま歴史街道散策くらぶ五月例会」講演会で佐々木指南が話された内容の一部を主要参考資料として「瀬戸内海の成り立ち」をまとめてみました。 現在、瀬戸内海は日本で最大の内海で、近畿・中国・四国・九州に囲まれた東西幅約450キロメートル、南北18〜55キロメートル、面積17000平方キロメートルの海域です。 そして、大小無数の島々が浮かんでいます。最大の島は淡路島で、以下、小豆島(香川県)・屋代島(山口県)・大三島(愛媛県)・能美島(広島県)と続きます。大きなタンカーが通るとその背後に全くかくれてしまうような小島まで、その数約3000といわれていますが、有人島は約800にすぎません。 これら無数ともいえる島々も、その分布には偏りがあり、主なものは淡路島・備讃諸島・芸予諸島・防予諸島、それに広島湾付近に集中しています。これらの島嶼群の間は、島の少ない海域となっていまして、それは灘と呼ばれ、播磨灘・備後灘・燧灘・斎灘・伊予灘・周防灘があります。
図1二万年前の日本列島に示ますように、氷河時代の日本列島はまさに大陸と陸続きでした。一番陸地が広かったのはこの時代よりも五千年前の二万五千年前から三万年位前の氷河時代で、海水面は現在より100メートル以上低く、水深の浅い大陸棚は陸化していました。氷河時代が終わるごろに、地殻変動が起こり、それにより日本列島は急激に沈みます。それと共に気候が暖かくなりましたので、北極と南極そして高山の氷河が一気に溶け出してきました。 一万三千年前頃から寒い時期から暖かい時期へと向ってきます。二万五千年前は現瀬戸内海は陸地であり、山とか平野でありましたので、南の海を見ようと思えば足摺岬の西、延岡あたりまでいかなと海に出会えなかったわけです。その陸地の川の流れがどうなっていたかといいますと、安芸灘・周防灘・伊予灘と斎灘は全部平野でありましたので、そのころの太田川の流れは、宮島沖を通て柱島を越え、佐多岬のところから足摺岬の先まで流れていました。この長さは約280〜300キロメートルになります。その川の名前は図2によりますと「西古瀬戸内川」といいます。 また東側は、四国山地・中国山地・紀伊山地に囲まれて、播磨灘や大阪湾も陸地でしたので、海と出会う場所は紀伊水道を通て南に出たところですから、川の流れは全部、紀伊水道を通て、現在の太平洋に流れでていました。鳴門にも主流が流れ、その流れは急激でありまして、大渓谷になっていたようです。この川の名前は図2によりますと「東古瀬戸内川」といいます。 暖かくなり、高山の氷河が溶けてくると、広島の沖あたりの安芸灘とか斎灘・燧灘に氷河が溶けてできた水で、湖ができてきます。また海水が上昇してきますから、太平洋や日本海の海水が進入してますので、その湖は下が塩水で上が真水の汽水湖となってきます。二万五千年前の西古瀬戸内川の主流は太田川であったようです。やがて、紀伊水道と豊後水道が沈下しました。この沈下の変位が、豊後水道の方が極端に大きく、そして中間あたりを流れていた川が西に流れだしたので高梁川が西古瀬戸内川の主流になってきました。そうなると西古瀬戸内川の流長はさらに長くなり、350〜380キロメートルになりました。日本一長い河川がここにできました。そして備讃瀬戸の西あたりが川の流れの分水界となり、東と西とにそれぞれ大河がながれていました。。今でも、豊後水道からと紀伊水道の両方から海水がはいってきて、また抜けるとき、ちょうどこの地域が潮目になっています。 このように、氷河時代から暖かくなり、気候がほぼ現在と同じになる一万二千年前から、溶けた海水で海進が起こり海水面が上昇してきます。6000年前に現在とほぼ同じような瀬戸内海が形成されたといわれています。ただし、その後現在よりも温暖であつた時期があり、海水面も現在より数メートル上昇したのち低下したとみられています。この海進は縄文海進と呼ばれています。 |
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図1 約二万年前の日本列島(図説 廿日市の歴史から) | ||
図2 約一万年前の瀬戸内海(図説 廿日市の歴史から) | ||
主要参考文献
ひろしま歴史街道散策くらぶ:五月例会講演会 講師:佐々木卓也
図説 廿日市の歴史 編集・発行 廿日市市 瀬戸内の風土と歴史 発行所:株式会社 山川出版所
環境考古学事始 発行所:日本放送協会 考古学でつづる日本史 発行所:(株)同 成 社
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