1.瀬戸内海の成り立ち
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峰起の鼻工房

 「ひろしま歴史街道散策くらぶ五月定例会」(H21年)の講演会で佐々木指南役が話された内容の一部を主な参考資料として「瀬戸内海の成り立ち」をまとめてみましした。


 現在、瀬戸内海は日本で最大の内海で近畿・中国・四国・九州に囲まれ東西幅約4500キロメートル、面積17000平方キロメートルの海域です。そして、大小無数の島々が浮かんでいます。最大の島は淡路島で、以下、小豆島(香川県)・屋代島(山口県)・大三島(愛媛県)・能美島(広島県)と続きます。大きなタンカーが通るとその背後に全く隠れてしまうような小島までその数3000といわれていますが有人島は800にすぎません。これら無数ともいえる島々はその分布に偏りがあり、主なものは淡路島・備後諸島・防予諸島、それに広島湾付近に集中しています。これら島嶼群の間は島の少ない海域となっていまして、それは灘とよばれ播磨灘・備後灘・燧灘・斎灘・伊予灘・周防灘があります。


 図1約二万年の日本列島に示すように、氷河時代の日本列島はまさに大陸と陸続きでした。一番陸地が広かったのはこの時代よりも五千年前の二万五千年前から三万年前位の氷河時代で、海水面は現在より100メートル以上低く、水深の浅い大陸棚は陸化していました。

 一万三千年前頃、寒い時期から暖かい時期へと向かってきます。二万五千年前は瀬戸内海は陸地で、山とか平野でありましたので南の海を見ようと思えば、足摺岬の西とか、延岡当たり迄行かないと海に出会えなかったのです。

 その陸地の川の流れがどうなってかといいますと、安芸灘・周防灘・伊予灘と斎灘は全部平野でありましたので、その頃の太田川は宮島沖を通って柱島を超え、佐多岬のところから足摺岬の先まで流れていました。その長さは約280〜300キロメートルになります。その川の名は図2によりますと「西古瀬戸内川」といいます。また東側は、四国山地・中国山地・紀伊山地に囲まれて播磨灘や大阪湾も陸地でしたので海と出会うのは紀伊水道を通り南に出た所です。、だから川は全部、紀伊水道を通て現在の太平洋に流れ出ていました。鳴門にも主流が流れ、その流れは急激であり大渓谷になっていたようです。この川の名は図2によりますと「東古瀬戸内川」といいます。


 暖かくなり高山の氷河が溶けてくると広島沖あたりの安芸灘とか斎灘・燧灘にその水で湖ができます。また海水が上昇してきますから太平洋や日本海の海水が浸入してきますので、その湖は下が塩水で上が真水の汽水湖となってきます。二万五千年前の西古瀬戸内川の主流は太田川であったようですが、やがて、紀伊水道と豊後水道が沈下しました。この沈下の変位が豊後水道の方が大きくそして中間当たりを流れていた川が西に流れ込んで来たので高梁川が西古瀬戸内川の主流になってきました。そのことから、西古瀬戸内川の流長はさらに長くなり350〜380キロメートルになり日本一長くなりました。そして備後瀬戸の西あたりが川の流れの分水界となり東と西とにそれぞれ大河が流れていました。今でも豊後水道からと紀伊水道の両方から海水が入ってきてまた抜けるとき、ちょうどこの地域が潮目になっています。


 このように氷河時代から暖かくなり気候がほぼ現在と同じになる一万二千年前から溶けた海水で海進が起こり瀬戸内海の海水面が上昇してきます。六千年前には現在とほぼ同じような瀬戸内海が形成されたといわれています。ただしその後、現在よりも温暖であった時期があり海水面も現在より数メートル上昇したのち低下したとみられます。この海進は縄文海進と呼ばれています。

図1 約二万年前の日本列島 

   (図説 廿日市の歴史から)          

図 2 約一万年前の瀬戸内海

    (図説 廿日市の歴史から)

主要参考文献

 

 ひろしま歴史街道くらぶ

  五月例会講演会(H21)

  講師:佐々木卓也

 

 図説 廿日市の歴史

  編集・発行 廿日市市


 瀬戸内の風土と歴史

  発行 (株)山川出版所


 環境考古学事始

  発行 日本放送協会


 考古学でつづる日本史

  発行 (株)同成社