1.影面の道(古代山陽道)

 昔は山陽道路のような、陽のあたる南面の山稜を「影面(かげとも)」

 

と呼んでいたことから古代山陽道路を「影面の道」と呼んでいました。

 

また山陰道路のような陽を背にする北面の山稜を「背面(そとも)」とよ

 

び、古代山陰道路を「背面の道」と呼んでいました。

 

 7世紀の中央集権政治のもとでは政府のただひとつの支所である大宰

 

府を北九州に設置し、そこを中心にして大陸諸国との交渉および西街道

 

防衛を実施していましたので、この「影面の道」は国家戦略から中

 

と九州を結ぶ最重要な官道でした。よって当時の朝廷は官道の中で唯

 

の大路として定めました。

 

 この道は古代の尺度で30里(現在の17q)毎に「駅家」が置かれ、

 

駅馬が20匹配されました。八幡地区では利松の近くに「大町駅」があ

 

ったとされています。

 

 道路のルートは今の山陽自動車とほぼ同じであったといわれており、

 

八幡地区近傍の道は、その当時今の広島デルタと五日市は海中でありま

 

したのでここをさけ、安佐南区の安川流域から石内・八幡・観音を通り

 

廿日市の平良へと繋がっていました。また、内陸部を通る安芸の国は、

 

峠越えや川渡等の難所続きでしたので、馬が通れる道幅程度であったよ

 

うです。

 

 八幡川に架かっている「郡橋」はかってはここを古代山陽道が通って

 

いました。 

  

 

                      

峰起の鼻工房

影 面 の 道
郡 橋
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H22.05.04