「教龍寺銅鐘」

この鐘は、筑前遠賀庄黒山千手寺のものでしたが、江戸末期に西本願寺から太秦の広隆寺の鐘となり、現在は吉和教龍寺にあるという転変をたどったものです。
東京国立博物館には、文化六年(1809年)に市河寛斎が広隆寺で得たことを記した拓本が所蔵されており、調査の結果その彫刻名は、現教龍寺のものと完全に一致しております。
この鐘は、竜頭の向きが撞座と並行する方向にあり、それが鎌倉時代以降にみる新形式であること、撞座の位置は時代が降るにしたがって下方にさがる傾向にあるが、本鐘はまだ高い位置にあること、口縁部の駒の爪がわずかにふくらみを持っていることなどから、銘文にある明徳五年の時代的特色に相応した姿をしています。
また、芦屋鋳物師の作と推定され、厳島千畳閣にかかる応永五年(1398年)の赤間鐘と、作風も近似します。
こうしたことから、本鐘は国の鋳造史の上からも室町時代の貴重な遺例であり、広島県指定の重要文化財となりました。