原の地図 | |||||||||
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川末地区にある縦横15メートルほどの大椿は廿日市市天然記念物に指定されています。3年前には「全国椿の会」の会員が訪れ、「珍しいので大切に」と言われたそうです。所有者である大上さんは椿を傷めないようにと周りの竹の手入れも欠かさず、毎年立派な花を咲かせています。残念ながら見頃は4月中旬まで。 |
![]() ▲川末の大椿 |
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か原公民館のシンボルツリー。開館してから植樹された枝垂桜は、公民館とともに成長し、今では高さが5メートル40センチ、横幅は6メートル50センチ、幹は約1メートルあります。地域の方も草とりを協力してくださり、4月の初旬に花をつけています。 |
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むかし原の山では、晩になると火が灯り、ずうっと沖の方まで照らしていました。近くの原付近では見えないのに、遠くの海上や廿日市の方からは見えたので、沖の船は、この「ひとつ火」を目印にして廿日市や地御前の港へもどっていたそうです。 江戸時代の中頃に廃寺になった禅宗の寺がご本尊である「黄金の観世音菩薩」を埋めたという話から「あの火は、土の中にいかっとる観音さんが光っておりんさるからじゃ。」と言う人がいたり、火の正体を探す人がいたようですが、結局わからずじまいで、そのうち見えなくなったということです。参考「図説 廿日市の歴史」 |
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極楽寺の北、標高六百メートルの山地に一万平方メートル近く広がる「蛇の池」。昔は天然氷を切り出したり、凍り豆腐が作られていたようです。 スイレン 今年も「蛇の池」の睡蓮(スイレン)が咲きました。9月下旬頃まで赤・ピンク・白のスイレンが楽しめます。 |
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大蛇伝説 | |||||||||
その@「蛇の池」は昔から大蛇の住む池と伝えられています。頭が八つ、尾が三つの大蛇は「春になると池からはい出て、出雲の方へ行き、秋になると娘をさらって戻ってくる」とうわさされ、春の雨の夜と秋の長雨の夜には決まって「ずるずるっ、ずるずるっ」という不気味な音が聞こえていました。「古事記」にでてくることでも有名な、あの須佐之男命(スサノオノミコト)が出雲で大蛇を退治してからは、不気味な音は聞こえてこなくなったそうです。 そのAまた、その昔、雨が降り続いた時、大蛇が泥水とともに流れ出て、下平良の人々たちを脅えさせました。この大蛇をなぎなたで退治したのが「福佐売(ふくさめ)神社」に祭られている福佐売の姫でした。その時に飛んだ大蛇の首は、流れ出た血で瀬戸内海を真っ赤に染めながら二つ山向こうの地御前村にまで届きました。たたりを恐れた村人たちは神社を建てて祭りました。大蛇の頭が八つあったので「八ツ面(ヤツモテ)神社」と呼ばれ、現在も地御前に残っています。 |
◆福佐売神社![]() |
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川末の大上さん宅の田んぼでは今年もモリアオガエルが産卵を始めました。田んぼの周りの菖蒲や柿の木の枝に夜のうちに産み付けられた卵は、真っ白な泡のようで大人の握り拳三つ分はあろうかという大きさ。例年三〇個〜四〇個くらいの卵が見られるそうです |
![]() ◆自然豊かな大上さん宅 卵が赤みを帯びてくるとオタマジャ クシが出てくるサイン。 |
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![]() ▲千手観世音菩薩像 |
火極楽寺本堂の御開帳では、本尊である十一面千手観世音菩薩像(県重要文化財)を見ることができます。坐像高206p、五日市下河内大杉の杉の大木から作った一木造り木目を応用した平安時代中期の巧匠の作といわれています。千本の手には、それぞれ目を備え、慈悲が無限であることをしめしています。両目からあごにかけての線は、割れ目を防ぐ漆のためですが、涙を流しているように見えるため、後世、涙流しの観音といわれています。 |
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むかし、行基ぼさつという徳の高い、偉いお坊さまがおられました。あるとき、この行基ぼさつが観音山に登られて、大きな杉の木に人々の幸福を祈願されました。すると、その大杉は、その夜から青白く光るようになりました。みんな大変喜んで、この大杉を神聖な木として大切にするようになりました。 |
![]() ▲大杉(イメージ) |
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![]() ▲ヘクソカズラ |
「どうもおかしい。」みんなでがやがや言っていると、大杉の木の根元の方から「もしもし、もしもし。」と小さな声がしました。「私は、かつらの仲間からばかにされている、ヘクソカヅラです。みんなが切られた木のこっぱを杉の木の周りのかつらたちが夜のうちに全部集めてしめつけて、元通りにしていたんです。どうか、切られたこっぱを全部焼いておいてください。そうすれば、この大杉はきっと切り倒せます。」村の人たちは大変喜び、言われた通り、その日に切ったこっぱをみんな焼いてしまいました。それからは、切り口が元に戻ることはありませんでした。 何日かかったでしょう。とうとうこの大杉は大きな地響きをたてて倒れました。その時の音は、四国や九州にも聞こえたそうです。そして、幹の中程にあった大きな節は隣の部落に、木末の方はそのまた向こう隣の部落に落ちたことから、この部落を中節木末と呼ぶようになりました。村の人たちは、この杉の木で仏像を彫って、極楽寺へ奉納しました。このことを知った近くの村や町の人々が後畑にやってきて、この大杉でたくさんの仏像を作りました。このとき作られた仏像は、五日市の薬師さまを始め、佐伯や湯来などにたくさん残っています。 ※参考文献『廿日市の民話・伝説』 (S53発行)には「ヘクソガラス」と記載されているところを、文脈から、実在する「ヘクソカヅラ」としました。 |
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![]() ▲「湯立て」 |
![]() ▲「幣舞」 |
毎年10月に,伊勢神社神楽団による奉納神楽が行われます。 |
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<伊勢神社> 祭神は天照大神・月読神・素戔嗚尊・少彦名命・宇迦之御魂神・市岐島姫命(稲荷神)・瑞津姫命・田心姫命・大歳の神々が祀られています。大歳神は稲荷神と兄弟で、農業の神ということです。これらの神はいずれも各地の守り神でしたが、明治時代に合祠され現在の伊勢神社になったものです。 なお、現在の伊勢神社には鳥居が二基ありますが下側の鳥居は川末大歳社から移されたものとされています。現在の伊勢神社は、明治時代に金剛丸(現在の枇杷木造園付近)の王子宮・森宗の八幡宮・国実の王太子・川末の大歳社・径ノ丘の大歳社・長野の八幡宮の六社を合う祠したお宮です。 |
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原の立善寺(りゅうぜんじ)の霊雲師が、川末の「講寄(こうより)」にお参りになり、行事もすんで帰ろうとする頃には、もう夜もとっぷりと暮れていました。 川末と長野の堺にある、辰岩という大きな石のあるところまで帰ってこられると、どうも辺りの様子が変なので、おかしいなと思われたとたん、岩陰から急に見慣れないものが現れました。じっと見ると、顔はみにくく手足はやせおとろえた亡者です。 霊雲師は、「ああ、これは餓鬼道に落ちた亡者だな。」と、ふびんに思われて話しかけられました。 「何しに現れたのか。」 「水がほしい。水がほしい。」 「よし、水をくんできてやる。」 |
![]() ▲立善寺 |
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近くの小川から両手で水をすくって、口元に持っていき、飲ませてやろうとされると、餓鬼は「キャー。」と大声で叫び、驚いて飛びのきました。餓鬼には、その水が火に見えたのです。水は、飢えた人間には命のもとに見え、魚には住む家と見えるのですが、餓鬼道に落ちた亡者には、火に見えるのです。 びっくりされた霊雲師は、辰岩のある地べたに座り、一心に念仏を唱えられました。そして「今度は大丈夫だ。さあ飲んでみぃ。」と水を両手ですくって飲まされると、今度は大変安心して、うまそうに飲み、何度も何度もお礼を言って、姿を消したそうです |
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▲辰岩 | |||||||||
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![]() ▲てのひらに乗せると、ホンワカと命のぬくも りを感じました。6/19 |
課 |
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そんな状況に一石を投じようと、平成7年、地域住民の有志が立ち上がり「原にホタルを取り戻す会」を発足。各地への視察や生息場所の環境調査、ゲンジボタルの生態調査・飼育・川への放流を行い、二・三年後にはかなり飛んで、テレビに登場したこともありました。しかし、飼育して放しても大雨や台風によって翌年には幼虫が流され、年々数が減ってきています。 そこで、原にヘイケボタルを飛ばそうとする試みが生まれています。ヘイケボタルは湿地を好み、冬期に水田を乾かさない昔ながらの農法を採用した場所で見られます。川で育ち、大雨の影響を受けやすいゲンジボタルとは違い、土地を乾かさなければ毎年同じ場所で見ることができるのです。 現在の機械による農法では乾田にする必要があるので、原にヘイケボタルを飛ばすには、休耕田の湿地化を進めるのが良いようです。 執筆協力 原地区在住 酔馬さん |
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そのむかし、佐伯の友和や吉和へ行く人は、みんな原の川末を通っていました。これは細い山道で、決してよいものではありませんでした。なかでも七曲がりは、大きく曲がりくねって、とても危険なところでした。ここでは、馬が足をすべらせて、谷に落ちて死にました。そこで、人々は、ここに観音さまをたてて、「馬観音」とよび、たいせつにしました。 原は、このように、交通のたいせつな場所だったので、お寺も多く、公安寺、延光寺、立善寺、浄楽寺など、たくさんありました。また、薬師さまもあり、白岩には行者も住んでいました。ところがある年に、大洪水がおこり、薬師さまが流されてしまいました。雨がおさまってから、村の人々は、薬師さまを求めて、速谷川をさがして歩きました。すると、下平良の大きなクスの木の根もとに、薬師さまがひっかかっておられました。村の人々はたいへん喜んで、そこに小さな社(やしろ)をたてて、手厚く安置しました。この薬師さまは、いまも下平良のクスの木のそばにあり、大切にされています。 |
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▲下平良にあるクスの木と社 | ||||||||
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むかしむかし、村から村へ町から町へと修行して歩く、一人の行者がありました。この行者は、とても心のやさしい親切な人で、村の困ったことや悩みごとなどなんでもきいてあげました。また、けがや病気まで仏さまの力で治してあげました。この行者は、一年に一回いつも梅雨の頃にやってきました。ところが、ある年のことです。その年はいつもと違って行者の来るのが遅いので、村の人々は安否を気遣っていました。「今年は行者の来られるのがえらい遅いのぉ。どがぁしたんじゃ。こうふっちゃあ行者もなんぎなことじゃのぉ。」 それは、ひどい雨の夜でした。ときどきピカッと強い稲光も走り、バリバリッと木を引き裂くような激しい音も響いていました。雨も屋根からバケツの水をうつすような激しさで、とても外を歩かれるような状態ではありません。村の人々は、この激しい雨に行者の安否を気遣いながらも、その日はみんな早く床につきました。ところが、ちょうど真夜中のことです。突然雷の音とは違った、ドドドドという山が崩れるような大きな音が聞こえました。そして、雨戸の隙間からは、日の光のような明るい光が差し込んできました。 |
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村の人々はみんな目を覚まして、「ありゃ、この真夜中にどうしたんじゃろう。」と雨戸を開けてみました。すると、今まであんなに激しく降っていた雨はすっかりあがり、空は黄金色に輝いていました。そして、どこからともなく、あの行者の祈り声と、チンチンという鐘の音が聞こえてきました。「あっ、行者だ。行者がおいでになったんじゃ。」「なむあみだぶつ。なむあみだぶつ。」村の人々は、思わずみんなお祈りをしました。しばらくして、行者の声は次第に小さくなり、鐘の音もだんだん小さく遠くなっていきました。空は再び闇に包まれ、また激しい雨が降り出しました。朝になりました。 昨夜の雨はすっかり上がって、青空も少し見えていました。村の人々は、昨夜の不思議な出来事を話しながら、どこか変わったことはないか調べてまわりました。「ありゃあ、このがけの下に行者が倒れとられる。」そこは、岩がひさしのように出て、雨宿りにはちょうどよいところでした。「ゆうべのあの不思議なできごたぁ、行者さまが仏さまのところへ行かれたんじゃ。」村の人々は、行者を手厚くとむらい、そこに小さなほこらを作って葬りました。それからは、どんな大雨の時にも、後畑には水害が決して起こらないようになりました。そして、行者の死んだ梅雨明け頃の夜には、今でも行者の祈り声とチンチンという鐘の音が聞こえてくるそうです。 参考:『廿日市の民話伝説』 |
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百姓ばかりじゃのうて、後畑は、奥すじ(湯来町)へ抜ける重要な道すじなんで、いろんな人が通ったんじゃが、その人達にも「わしの土地は通さんぞ。」とか「通行税をおいていけぇ。」とゆうような、嫌がらせをしとったんで、みんなから恐れられておったげな。ほいでのぉ、あんまりひどい仕打ちをするけぇ、みんなは、表面はしょうがなく従うちょったが、心の中じゃあ「いつかは、やったろう!」と思っとったそうじゃげな。 |
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![]() ▲現在の後畑の様子です。 |
部落の人々は複雑な思いで、コソ四郎を穴のそばに迎えたそうな。「穴の深さはどのくらいかのぉ。」とコソ四郎が穴をのぞきこんだそのとき、「えい!」と誰かが、コソ四郎を穴の中へ突き落としたんじゃげな。「さぁ、土をかぶせ、土をかぶせ。」人々は夢中で土をかぶせたんじゃげな。穴に突き落とされたコソ四郎は「助けてくれぇ!今まですまんかった。助けてくれぇ!」と泣きながら叫んだが、どんどん埋もる土にその声もかき消され、とうとう死んでしもうたそうな。
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上平良に二重原というところがあります。ここから、野貝原へ行く山道をしばらく行くと、「つゆ太郎さん」のすみかがあります。大きな岩があってその岩の上に時代を経た枝ぶりのよい松の木があり、一つの枝は道までたれさがり、付近の大きなナラの木とともに信仰の場所にふさわしい点景となっています。大きな岩には幅二センチから四センチばかりの三本の割れ目があり、中の割れ目には松の木の根がくい入りその神秘性をますます増しています。岩の正面には小さな物ですが銅板の屋根をもつ立派な祠があり、その中には古びた五神殿があって御幣を祭り、小さなかわらけにはお酒が供えてありその信仰の素朴さを身にしみて感じます。 このつゆ太郎さんは商売の神様で、特に水商売の方がときどきまいられ、成功した人が、あんな立派な祠を建てられるのだそうです。また、女の人が安産を祈願され、安産の神ともいわれ「おかげで丸々とした赤ちゃんが生まれた」という話もあるそうです。 |
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つゆ太郎さんは、いつも見られるわけではありません。つゆ太郎さんとは神様の蛇で色はこげ茶色、大きさは大人の親指くらいで、長さは四十センチくらいといわれ、いつも大きな岩の割れ目にじっとしており、その姿は、つゆどきだけ見えると伝えられています。ときどき二匹見たという人もおり、夫婦の蛇がおるともいわれています。神殿のとびらをしめていたにもかかわらず、その中にぬがれた皮が二枚あった。その皮を風の当たらないように手の中に入れて、じっと見ていると不思議にも動いたとか…。またこの皮をさいふの中に入れていたら金持ちになったという話も伝えられています。 つゆ太郎さんの岩より南へ四十メートルばかりはなれた所に、清水が流れおちています。これを「つゆ太郎さんの水」といって、夏でも冬でも雨が降り続いても、かんばつの時でも、水の量が同じように流れているので不思議がられています。 |
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●地蔵尊立地場所 橋本地蔵尊は、国道433七曲峠を経て蔦原(湯来)に入る道と、西へ川末沿いに上り泉水峠を経て玖島へ至る道の二つに分かれる三叉路の長野川畔に「道しるべ地蔵尊」として川下に向かって祀られていました。 昭和20年(1945)9月の枕崎台風によって被災。現在の位置(長野川畔、川上に向かって)に祀られました。 ●道しるべ地蔵尊としての役目 上平良から原に入る往還は、江戸時代(1592〜1867)の主要街道の一つ西国街道の廿日市可愛・土橋から別れ、可愛川沿いに上って、上平良郡塚あたりから北側の山と並行して上り(旧平良小学校付近)末森・大原を廻る当たりから、さらに急坂となり、左にゴゴロ山を廻って原の橋本に至っていました。 このあたりで標高150〜160mです。 現在の道のりで廿日市〜原間はおよそ4km、徒歩で40分くらいでしょうか。車では10分もかかりませんが、当時はいろんな荷物を持ちながらの街道は難儀であったと思われます。 奥地への道案内と休憩場所として当時の橋本は今風に言う「道の駅」だったようです。(別紙明治の頃の橋本絵図参照) 道しるべと道中安全祈願役の地蔵尊の台座には、右へ行くと山縣方面(七曲がり〜蔦原)。左に行くと石州方面(泉水峠〜玖島)が記されています。 ※今は反対の方向に立地されています。 ※原に電灯が灯ったのが大正8年(1919)8月24日の地蔵祭りでの仮工事、本格的には翌年からでした。 ※バス(木炭)が通り始めたのが昭和14年(1939)。一日4往復。料金、片道20銭。 |
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