あさはら 廿日市市浅原市民センター(公民館)
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  ≪ふるさとへの思い≫

 写真の文は、故浅尾哲三さん(浅原出身)が佐伯町助役だったとき、職員の男性バンドのために作詞された「俺たちの佐伯町」の一部を掲載しています。私たちも「ふるさとへの思い」を大切にして、地域づくりをしていきたいと思います。この「佐伯町」を「浅原」に置き換えれば思いは同じことです。 
   …先輩から受けたバトンを次の世代へ… 
  ≪俺たちの佐伯町≫  作詞 浅尾てつ草

1 あの高い山に そこの小川に 思い出が一ぱい 染み込んでいます
  それがいま 町を愛する気持ちに なっているようです
  195.68平方キロの 素晴らしい山河こそ 俺たちの故郷です

2 あの学校の 友と先生の 親しさが一ぱい 蘇って来ます
  それがいま 励まし合いの力に なっているようです
  195.68平方キロの 素晴らしい山河こそ 俺たちの友愛です

3 この広い町の 栄えるために 先輩は一ぱい 汗を流しました
  それをいま 若い者たちが 受け継いで 行くことになります
  195.68平方キロの 素晴らしい山河こそ 俺たちの佐伯町です

  ああ大切な 俺たちの佐伯町です
 
  ≪浅原と上田宗箇(そうこ)
 
 上田宗箇(1563-1650)は、浅野藩の上席家老(1万7千石)でした。
 元和(げんな)5年(1619)浅野長晟(ながあきら)の芸州入りに従い、佐西郡(佐伯郡)ほかに領しました。

 元和6年所領の浅原の崎城(さきじよう)に約一ヶ月おられ、すぐ御泉邸(縮景園)の造営に当たられました。再度元和10年(1624)崎城に来られ、約3年「岩船の水」でお茶を点て、四季の風物にお楽しみになりながら、お茶人としての月日を過ごされました。村人から「そうかさあ」と親しみ呼ばれ、ご帰藩の折には、温かいお心、お人柄に別れを惜しんで、村人が村境までお見送りし、泣いてお別れしたそうです。

 それから浅原の崎城では、宗箇様を追慕して宗箇講をつくり、毎年お祭りをして来ました。戦中戦後、宗箇祭も途絶えておりましたが、昭和54年(1979)に復活し今にいたっています。 
 
  ☆ 追慕の辞 (平成14年宗箇追慕祭実行委員会 代表 故浅尾哲三氏)
 
  【浅尾てつ草句集より】

  ≪宗箇さま 講に戻られ 秋日和≫  ≪岩舟や 筧の音色 お元日≫
  ≪岩船の 砂焼き茶碗 初茶会≫  ≪宗箇桜 咲いて村中 しあわせに≫
  ≪岩舟の 水をみやげに お茶の町≫  ≪村中が お茶人となり 宗箇様≫
  ※筧(かけひ)、村中(むらじゅう) 
 
  【上田宗箇】

 尾張星崎生まれ/丹羽(にわ)長秀(織田信長の家臣)の侍児/豊臣秀吉の家臣(越前に1万石)/浅野幸長(よしなが)の家臣(和歌山に1万石)/上田宗箇流茶道の創始者/作庭家:千秋閣庭園(徳島城)、西之丸庭園(和歌山城)、二之丸庭園(名古屋城)、御泉邸(縮景園) 
 
  ☆ 茶道上田宗箇流 /  年表 上田宗箇の生きた戦国時代

 ☆ 上田宗箇の伝説と史跡  (岩船の水、桜の畷、木兎の手水鉢、宗箇の遺髪塚) 
  ≪浅原の民話≫

  水神釜の猿猴 「さいきの伝説と史跡・名勝」より抜粋

  「佐伯町の民話・伝説」抜粋
    (山王神社のおさん猿、サヤの神と古刀、枇杷(びわ)が原、風呂の谷と軍用金) 
 ☆ 佐伯町の文化財(浅原関係抜粋)
   
 史跡≪上田宗箇岩船の水≫  重要文化財≪安井家母屋≫
   無形文化財≪浅原神楽団 神楽舞 「しゃすい」 「恵比寿」 「三本薙刀」≫