2008年版
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惜別球人 甲斐 雅人 

甲斐雅人。
広島東洋カープ、内野手。
この冠に「元」をつけなければならぬことになりやした。

10月10日。戦力外選手の発表があり、大須賀くん、丸木くん、金城くんの名前に並んで甲斐くんの名前がありやした。本来ならこの4選手全員について述べなければならぬところでありやすが、あっしにとって、大きな大きな存在であった甲斐くんについて述べていきたいと思いやす。

甲斐くんはあっしの若鯉応援の原点でありやす。
7年前のある休日。注目のルーキー大竹くんが初先発との記事が目に入り「久しぶりに由宇まで出かけてみるべ」と、のこのこと出かけたのでありやす。由宇、以前はちょこちょこ足を運んでおりやしたが、その頃のあっしは、仕事中心の生活で足が遠のいておりやした。若鯉情報にもとんと疎うなっとった次第でありやす。その試合、細身で背の高さだけが目立つある選手が左中間にどでかいホームランを打ちやした。そんなわけでありやすから、その時はじめて、それが甲斐くんというのを知りやした。実はあの打撃に魅了され、あっしの由宇通いがはじまったんでありやす。その日以来、由宇・大野と若鯉、いや、ある意味、甲斐くんウオッチングの生活がはじまりやした。

また甲斐くんは、このホームページの原点でもありやす。
通いつめて若鯉たちの情報もかなりのものになった頃、由宇仲間から「はち兵衛さんもホームページを作ったら?」との”悪魔のささやき”があり、それにまんまとハマッで、このホームページを一晩で作り上げたんでありやす。その時、甲斐くんのみの応援に絞るか、それとも、若鯉全体にするか迷うたくらいでありやす。それくらい、由宇・大野でのあっしの視線の先には、甲斐くんの姿がありやした。

画像は、3年前の市民球場の親子ゲームで右中間に放り込んだ時のものでありやす。
この年、打率0.353を残しやした。一時は4割を越える打率で、いつ上にあがってもええ状態じゃったです。当然上に呼ばれたんでありやすが、そこで右足を痛め、これが後々まで尾を引くことに。
世界で4つしかないオリジナルの携帯ストラップ。イラストはご存知透明ランナーさん。残り3つの所有者はナゾにしときやす(笑)
今でもあっしの携帯についておりやす。

戦力外の通告を受けた現在、甲斐くんとの思い出が頭をよぎりやす。
いろいろあり過ぎて困りやす。入団3年目のウエスタンリーグの優勝決定戦。わざわざ仕事を休んで、由宇の外野席(普段は入れやせんが、この時は開放されやした)で仲間と一緒に応援歌を歌ったこと。この応援歌、甲斐くんにちゃんと聞こえたそうでありやす。この日、応援に駆けつけた甲斐パパさんにお会いして、その後のお付き合いに発展したこと。

初めて一軍登録され、7番セカンドでスタメン出場した試合も忘れられやせん。最初の打席は、キャッチャーゴロ。二打席凡退で退きやしたが、あっしの息子が試合に出とるような、妙な錯覚を覚えやした。この試合、仲間の疾風さんがナマ観戦しとられやしたが、あとで「はち兵衛さんが応援しとる甲斐くん。私もはらはらドキドキしてみましたよ。これがはち兵衛さんの言う醍醐味なんですね」と語っておられやす。
3年前の一軍の試合で右足のじん帯を痛め、その後打撃フォームを崩してしまった時でありやす。好調時とのフォームの比較をまとめて、甲斐くんに知らせたこと。などなど

あっしは選手と一緒に写真に収まるのはあまり好きではありやせぬ。大柄な選手と一緒じゃと釣りあいがとれやせぬ(笑)
まあ冗談はおいといて、ドミニカン以外の日本人選手では、甲斐くんと末ちゃんくらいでありやす。
甲斐くんの時はよう見てくだされ、親しみがありすぎて、つい肩に手をかけてしまいやした。
よさこいリーグで自打球を左足に受けたこと。右肩痛でショートをあきらめざるを得なくなったこと。その後走者と交錯して指を怪我したこと。最後に先に書いた右足のこと。思えばケガに泣かされたやした。そのケガのたびにリハビリに励む姿が目に焼きついておりやす。

カープから戦力外になりやしたが、ウエスタンでは、今カープで売り出し中のキダゴーと打点王、赤松と首位打者を争った実力の持ち主でありやす。このまま埋もれさすのは、残念でたまりやせん。甲斐くん自身はトライアウトを受けるつもりじゃそうなんで、新天地で大輪の華を咲かせてもらいたいもんでありやす。

あっしがこれを書いとる今この時間、甲斐くんは大野でトライアウトにむけて練習に励んどるハズ。再出発の挑戦にエールをおくりたいと思いやす。
がんばれ甲斐くん。そして「夢を、また、甲斐くんを応援する素敵な仲間を与えてくれてありがとう!」。
「さよなら」は決して言わんぞ